参考資料:掲示板のログ

お久しぶりに・・・ 投稿者:take 2001-06-23 23:31

「戯言」読みました。全然戯言じゃないですねぇ(笑)。社会に不満や疑問を持っている人(おそらくほとんどの人)には重要です。

『犯人側が背負うべき「罰」は、理由によらず同一であると言える』ってのはよく解かりますね。僕的には「社会が与える罰」が同一なのではなく、いかなる場合も犯人達は自己に対して責任を負うということを社会が認めるべきだというニュアンスですが。責任がないのなら犯人は人間でないことになります。そういう偏見は不要です。

「罪の責任を負う」とは必ずしも罰を受けること同一とは限らないと思います。これは「後悔する・反省する」とか「罪を償う」とか「更生する」というのが当てはまると思います。つまり、いくら死刑とか終身刑とかにしたところで本人が悔いたりしなかったら意味なしということです。それで悔いるのなら大いに意味がありますが。つまり「罰」ってのは更生するための一つの手段ですね。要するに犯人が更生するために社会がどう処置を取るのかはケースバイケースなんです。

それと、『本人が死んだとしても、周囲の人々が一人一人、将来「重い十字架」を背負うことになるのだ』ってのもその通りですね。これは僕的には、そもそも人は一人で育つものではなく周囲(社会)の影響を多分に受けながら育つから、周囲(社会)も責任を負うことになるということです。周囲や社会も反省せねばならないということです。こういう事件は周囲や社会のどんな影響によって起きるのか、どうすればこういう事件が減っていくのか、無くなっていくのかを社会を構成する一人一人が考えなければならないでしょう。

また、被害者側の不幸に関してももっともですね。もちろん子を失うことは想像を絶する痛みです。悲しいです。でもただ悲しい、不幸だ、可哀想だで終わらすのでは、人生に意義を見出せなくなってしまうでしょう。同様にこれらは第三者である我々にも言えることです。ただ悲しいで終わらすわけにはいきません。

すっかり長くなってしまいました。僕の掲示板でも同じような議論を多少していたのでね。僕的にはこれが最も正論だと思っています(個人個人で正論は異なると思いますが)。言うだけは実に簡単ですがね。でもとりあえずこうやって表現するのもとても重要だと思っています。

え〜っと、、。 投稿者:myaou 2001-06-21 13:55

子供を殺されたという事実は不幸ですよね?

myaouが不幸という言葉をそれぞれの個別の問題に対して使ってて、古林さんは人生を振り返って総括したときにどうか、という所で使ってるので、その辺りで話が食い違ってるのかな?

ただ、(これは思想の問題ではなく文章構成上の問題だと思うのですが)古林さんが「戯言」に書かれた文章では、古林さんが言おうとする事が正しく伝わらないのでは、、、と思います。

後半部分で古林さんが語ろうとしていたテーマが、今回の事件の感想の中に書かれているのではなく、別の事例を例えにして書かれていたら、なるほどそうだ、って思ったと思うんですよ。

今回の事件についての感想の中で語るテーマではなかったのでは?あるいは語るにしても異なる表現で語るべきだったのでは、、と、思うのですが、、、。

すくなくとも、子供が将来悪い事をしたら、という仮定はこのような事件について語る時に使うべきではないと思いましゅよ?

子供が殺されたら、っていう話と、子供が悪い事をしたら、っていう話は根本部分で異なる話ではありませんか?