続・児童殺害事件に関する一考

不幸は「絶対的不幸」か

被害者の側から見れば、何も罪もない子ども達を殺害されたわけだから、おそらくは「絶対的不幸だ、可哀想だ」と思うに違いない。しかし、それは真理であろうか。

myaou様は、私が不幸か否かを人生を振り返って総括したときにどうか、という所で使ってると言っておられるが、実際人生というものは、現在起こっている事象だけからは、善悪/幸不幸の判断は出来ないものである。

例えば、1億円の宝クジが当たったとする。人はそれを「幸運」と呼ぶ。しかし、それが当事者にとって幸いとなるかどうかは、その後の当事者の姿勢によって大きく変わる。その金を有意義に使えば幸せであろうし、取られまいと執着し過ぎ、財産争いに巻き込まれたとすれば、必ずしも幸福とは言えないであろう。

今回の殺人事件に関しても同様と思われる。事件が「絶対的不幸」だとすれば、被害者は一生「不幸な人生」が約束(?)されたことになる。しかし、必ずしもそうでないことは、正常者よりも有意義な人生を送られている障碍者の方々の存在からも、明らかであろう。take様ただ悲しい、不幸だ、可哀想だで終わらすのでは、人生に意義を見出せなくなってしまうでしょうとおっしゃっている。その通りだと思う。

一刻の幸福/不幸、存続する幸福/不幸

myaou様子供が殺されたら、っていう話と、子供が悪い事をしたら、っていう話は根本部分で異なる話 とおっしゃっている。幸福/不幸において 根本部分で異なる 部分があるとすれば、それは、一刻のものか永続的なものか、の違いと思われる。

宝クジにせよ殺人にせよ、それは一刻の幸福であり、不幸であると、私は思う。「宝クジが当たった」喜びはその場限りのものであり、いつまでも取っておけるものではない。逆に「家族仲良く暮らせる」喜びは、存続できる喜びである。そして、存続できる喜びは「生きがい=人生の意義」とも成り得るものである。

以上の観点から言えば、子供が殺された不幸と、子供が悪い事をした不幸とは、根本部分で異なる。前者は一時的なものであり、後者は永続的なものと言えよう。

重要なのは

一時的な幸福や不幸は、それ自体では「幸福か不幸か」を論ずることは出来ない。いわば、宗教臭い言葉で言えば「神からのメッセージ」である。

つまり、子供が殺されたことを通じ、被害者達は、対して何かしら欠点や不徳を指摘されていると思われる。加害者は自分の罪に対して罰を受け、反省すべき状況にあるわけだが、被害者も同様に、何かしら今までの行いに関する反省を求められているのである。

子どもの育て方に間違いがなかったか、夫婦の仲が良かったかなどを反省した上で、今後二度と犯罪を起こさないための取り組みを進めて行けば、少しづつではあろうが、幸福に近付いていくのではないかと思う。

重要なのは、結果として幸福だったか不幸だったか、である。つまり、一時的に不幸があっても「永続する幸福」をつかめばそれで良い。逆に、一時的な幸福であっても、いつまでもその幸福に執着していれば、結果として「永続する不幸」に結び付くかも知れない。「塞翁が馬」の諺にもある通り、どちらが有意義な人生であるかは、誰が見ても明らかであろう。