児童殺害事件に関する一考

許しがたい行為

6/8日の午前、大阪の小学校にて、一人の男性が児童達を襲い、児童8人が死亡する事件が起きた。

この事件は、前途ある子ども達を死に追いやったという点で、全く許しがたい行為であると言える。親御さん達も実にやり切れない気持であろう。心より御冥福申し上げる。

さて、この事件に関して、違う視点から論じて行きたい。

自分が処刑されればそれで良いか?

まずは犯人側である。法律的には、犯人は精神異常があり、責任を問われないとの理由で、実刑は軽くなることが予測される。しかしいかなる理由であれ、これから生きて行こうとする人達の命を断ってしまったことには変わりが無い。従って、犯人側が背負うべき「罰」は、理由によらず同一であると言える。

第二に、犯人側が背負うべき罰は、犯人だけのものではない、ということである。つまり、「自分さえ死刑をもって断罪すればよい」というものではないのだ。

本人が殺人などの罪を犯したことにより、両親はもとより、親戚・友人・知人その他関係者に対する第三者の目は冷やかなものとなる。その負い目は消えることなく、子孫に至るまで続く。本人が死んだとしても、周囲の人々が一人一人、将来「重い十字架」を背負うことになるのだ。つまり、自分の人生は「自分だけのもの」ではないのだ。何もかも嫌になった。何回も自殺を図ったが死にきれない。捕まえて死刑にしてほしかった。などと、よくも言えたものだ。

未来への取り組みの重要性

次に、被害者側である。確かに、子供を殺された親御さん達の悲しみと怒りは、想像に難くない。しかし、それは必ずしも「不幸」と言えるだろうか。

同じ被害に会っても、その後の人生によっては全く違う道を歩くことになろう。例えば、悲しみのあまり、一生泣いて暮らすこともあろう。しかし一方で、その不遇を乗り切り、犯罪撲滅のための取り組みを中心になって行い、充実した一生を送ることも出来よう。はたまた、たまたま生き残った息子・娘であっても、不良になったり不祥事を起こしたりすれば、親や親戚は悲しみの目に会うだろう。

過去は変えられない。しかし未来は変えられる。親御さん達も、自分達のなすべき道を見付け、懸命に努力していけば、いつかは大いなる恵みとなって返ってこよう。そうなれば、死んだ子供達も報われるのではないだろうか。