「偉そうな心」の真理

失敗した研究発表

先日、教授の先生から酷く叱られた。研究発表会で失敗したのが大きな理由である。発表中から既に失敗したのは認識していた。後に「古林君、あの発表はまずかったぞ、なめとんのとちゃうか?」と言われ、ひどく落胆した。

しかし後で両親を含め、何人かの人とこの事態に関して相談を受け、自分の大きな欠点を自覚し得た。つまり「起こって来た物事を『なめて』かかった」ことである。つまり、今までの研究活動や発表会が、自分の得意分野であるが故にたかをくくり、「こんなもんでいいだろう」と決めつけ、誠を込めなかったためである。私はこの事実に対して深く反省し、自分の目の前の物事に関しては、何事に対しても誠を、心を込める決意をした。

「偉そう」の意味

さて、俗に「偉そう」という言葉がある。通常は「自分の業績を自慢したがる」或は「相応する地位でもないのに威張る」ことが想像されるが、それだけではない。

目の前に起こって来る物事はすべて、自分の向上に役立つ「素材」である。それをなめてかかり、本気を出さないことは、「自分はこれだけ出来るんだから」という自尊心や自慢に他ならず、例え表現せずとも少なからず他者に対して不快な思いをもたらすものである。最終的には大事な場面でしくじり、天狗の鼻を折られ、周囲の人々の信頼を失ってしまうのである。そのような「偉そうな心」は、他者への冒涜のみならず、自分に対する冒涜でもあるのだ。

「謙虚」と「へりくだり」

結論として「偉そうな心」は身を滅ぼす。しかし「へりくだる=自分を必要以上に卑下する」ことは、「謙虚」とは違う。起こって来る事象を素直に受け止め、本気になって取り組み、戦い抜くことこそがあるべき姿であると思うし、私自身も、その姿勢を体得すべく努力したい。